●正調江差追分について
江差追分には前唄、本唄、後唄がありますが、江差追分大会で唄う「正調江差追分」では、本唄を唄います。
かもめの鳴く音にふと目を覚まし、あれがエゾ地の山かいな
正調江差追分本唄は、7節を2分20秒から2分25秒までに唄い終わるものとされ、1節は大波の上より次第に海底へ沈む思いを唄い、2節は沈んだ思いより次第に浮き上がる感じを表し、3節はその浮き上がった思いより、逆に海底に引き込まれるような感じをもち、4節はより悲哀の調子となり、5節は骨子となるところで、情熱に血を吐く思いという感じを出し、6節で3節の海底に引き込まれる思いと同じくし、7節は4節の哀愁の情緒を持って唄い終わるものとされます。
さまざまな流派のあった江差追分が「正調江差追分」として、現在の形に定着したのは、明治41年、平野源三郎(正鴎軒)が各師匠に江差追分の統一を働きかけ、江差追分正調研究会が発足したのがきっかけです。
平野源三郎は、小桝のばあさんと呼ばれた三味線の名手の弟子で、この小桝のばあさんの唄が正調江差追分の元祖とされています。ばあさんから教えを受けた平野源三郎は、明治20年代の末頃に正調江差追分平野派を創設し、普及につとめるとともに音譜化の研究をはじめました。その後、平野源三郎師匠を中心に標準の曲譜を作るために努力が続けられ、明治44年、現在の7線による独自の曲譜ができあがり、平野源三郎師が東京で正調江差追分節発表会を開いた際、公表して定型化に成功したのでした。
●江差追分会「鴎濱会支部」のご紹介
2014年春、江差追分の名人として全国的に知られる青坂満先生の尺八伴奏をさせて頂きました。お会いした時既に80歳を超えていましたが、「潮の匂いのする青坂節」はまだまだ健在でした。先生は1968年の第6回全国大会の優勝者で、漁師の傍ら、師匠として多くの後進を育てて来ました。かつては漁師や馬を引いている人たちが、街のあちこちで追分を歌っていた。先生は、それを知っているだけに「朝方の空の色、嵐が来た時の雲の色……。人間の生活にある様々な色を自分なりに表現できるのが追分の良さだ」と話していらっしゃいました。
青坂満先生の愛弟子で、北海道江差町出身の木村八重子さんが東京で追分教室を開いています。連絡先は以下の通りです。