日本を代表する名曲「江差追分」は様々な人達の努力研究により現代の型が形成されて行くのであるが、その源流は長野県佐久地方に伝わる「馬子唄」であったと言われる。北に浅間山、東に碓氷峠を有するこの険しい地方は古来中山道に沿って栄えた宿場町が多く、参勤交代の制が敷かれると主な宿駅として本陣・脇陣などという高位な宿泊施設が続々と完成し、飯盛女などといわれる遊女も出現した。
中仙道と北国街道の分岐点(追分)の茶屋で旅人が疲れた身体を癒し、お互いに別れ別れになるのを惜しみ、元気ずけに遊女達が馬をつれ旅をする、馬子達が唄っていた唄を聞かせ、人生のはかなさ、哀れさ、物悲しさを唄い上げた。このように「追分」は、人間の惜別の唄として育って行ったのである。あるものは新潟から北前船で 北海道 へ仕事に、さらに鰊漁に行く者、貿易に行く者、様々な人たちが追分宿から旅立って行った。やがて追分が江差に渡り、江差追分の源流、又各地方の追分の源流として飯炊女が三味線で唄った歌が流行する。そして各地方で一定した唄い方ではなく、色々な形の唄い方が形成されて行ったのである。
現在「民謡」と言われているが、それ以前は「俚謡」と言って明治の頃までは村祭りなどののど自慢で歌を披露し、観衆を楽しませる程度であった。ちなみに俚謡という言葉を民謡という言葉にしたのは、民謡の父と言われた後藤桃水師であると言われる。 北海道 の 江差町 は当時鰊漁が盛んで、内地からヤンシュウ(出稼ぎ人)や鰊成金で賑わい、それらの人達を相手にする芸者達も集まり「江差追分」のブームをつくるきっかけともなった。
1919年(大正8年)東京神田美土代町のキリスト教育年館で本格的な追分大会が開かれた。この時、「江差追分」の伝説の名人として一時代を築いた「初代三浦為七郎」も参加し、紋付袴に威厳を正し、尺八の伴奏で朗々と唄った。それが大評判となり「江差追分」には尺八伴奏が無くてはならなくなった。それ以前は三味線が伴奏の主流であったという。現在舞台で紋付袴の正装で唄っている姿の源流は初代三浦為七郎師の過去からの贈り物として残っているのも興味深いものがある。初代三浦為七郎師の美声で格調高い風格のある唄に民衆は酔いしれたが、「江差追分」は元々本唄が主流で唄われていたものに、自ら前唄、後唄を作詞し三部構成にして唄い上げた功績、そして現代の「江差追分」に仕上げたことが最大の特徴である。尚、冒頭の江差追分の歌詞は現在幾つか唄われている歌詞の中で代表的なものを記している。その後三浦節「江差追分」は三橋美智也師、二代目三浦為七郎先生と受け継がれ今日に至っている。